晴耕雨読あまがえる

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感想「死に山〜世界一不気味な遭難事故」

世界的に有名な「ディアトロフ峠事件」。

厳寒の2月、ロシアの大自然の中での若きハイカーたち9人の死。彼らのほとんどは衣服もろくにつけず、全員が靴を履いていなかった。

あるものは舌を喪失し、あるものは両眼を喪い、そして衣服からは自然界ではありえない数値の放射線が検出された…

ネット時代でさらに伝説化されたその事件を、アメリカ人著者が実際に真冬の現地にまで飛び、もつれた糸を丁寧にほぐしていく。

そこに立ち現れるのは、謎めいた事件の影に隠れて記号のようにみなされがちな、犠牲者である9人の若者たちの人間としての姿。

若く熱意にあふれ大自然への冒険へ青春をささげる大学生たち。山に挑み友と語らい、マンドリン片手に歌い、愛についての議論で夜更かしをする、そんな日々を生きていたことを描き出している。

その事件で失われたものは、たんに9名の命だけではない。彼らの生きた日々、秘めながら語らなかった誰かへの思い、遺族とこれからも生きていくはずだったはずの未来、それだけではない。直前まで行動を共にしていた仲間までも、彼らを喪った悲しみだけでなくサバイバーズギルト、心ない人間による犯人説や犠牲者にまつわる勝手な憶測などで、大きく人生を狂わされてしまう。

そうか…事件が起こるとは、そういうことなんだ…

光に集まる蛾のように、自分自身もまたこの事件の不可解性に惹きつけられた人間の一人としてそのことを突きつけられ、胸を衝かれる。

これは単に耳目を集める伝説的遭難事件、というだけではなく「関係者にとっては今も続く苦悩」なのだと。

著者も同じように「あなたはアメリカ人なのに、なぜロシアのこの事件に興味を持つのか」と問われつつも、事件の関係者と人間的な関係を築き上げ、信頼関係を深めていく。そのなかで事件の関係者ですらも、不可解さゆえに陰謀論めいた真相を予感しているのに対し、あくまで事件の理論的な解明をしようと試みている。

結論から言えば、この事件はある自然現象が引き起こしたものであると、著者は専門家の力を借りて結論づけている。

 

その現象の名は、カルマン渦列が引き起こす、超低周波音。

 

その現象は事件の起こった1959年当時にはまだ知られておらず、それゆえに事件の捜査担当者が「未知の不可抗力」によるものとしたのも無理はない。幾度となく出てきたその名前、その山が地元に古くから住む部族、マンシ族に死の山という名で呼ばれていることの真の意味が唐突に、峻厳として立ち上がってくるのだ。なんという回帰、なんという…

 

前日に引き返し生き残った仲間の証言と、熱心で真面目なハイカーである彼らの遺した日誌、専門家の分析から事件当日を再現した最終章は、そこまで読み進めたものにとっては記号などではない9人の好ましき若者たちひとりひとりの最期であり、涙なしには読めない。人間は自然を征服することはできない。戦うことができるのみ。そこに勝利はなくとも。

 

「死に山」 河出書房出版社

ドニー・アイカー 著

安原和見 訳